hikarimetal’s blog

基本的に自分のためだけにメモとして書いております。

コロナに感染して、死ぬ事それも、自由だと思います。

 アメリカやヨーロッパにおいて、人権制限をする事は、尋常な事ではないと思います。しかし、このコロナにより、外出禁止+罰則という形で、人の自由が制限されています。これは、まさに、自由主義国家の限界を露呈したと思います。自由主義国家では、コロナの感染を防げないと言うことを意味しているからです。

 私はかねてから独裁体制(優秀な独裁者による)は、自由主義国家よりも効率が良いと主張して来ましたが、こういった危機においては、いみじくもそれが露呈したという事だろうと思います。

 日本においては、休業要請が出来ません。何故なら、要請する場合には、休業補償がセットだからです。独裁体制であるならば、ここを心配しなくて良いわけです。、個人が生き残るための最低を保証するだけと定義すれば良いからです。そもそも、ナイトクラブといったところは、普段から個別に大きな環境差異があります月の億円を稼ぐ人もいるわけで。それを、一律に保証するのは、本当に公平なのかという議論があると思います。単純に言えば、基本的に最低限の生活が行える事を保証をすことは当然ですが、現状の生活(人によっては贅沢と呼べるような生活)を保証するというのは、馬鹿げていると思います。

 左翼マスゴミが主張している国家保証は、そういった意味においては、適当ではありません。自由主義というのは、建前として、各々の経済格差を認めております。最低限の生活を行う保証は出来るとは思います。左翼の大好きな日本国憲法に規定されております。しかし、現状の生活を守れとは書かれておりません。日本では、生活保護という制度があります。それが全てす。収入を国家が保証しなければ営業を続ける、感染が蔓延してもしかたない。という考えは、エゴでしかないし、また、そこに喜々として行く人もおられるわけで、もう、これは自由主義としての一つの結末なのではないかと思います。死ぬことも自由であるという事です。ある意味、自制が出来ない方は勝手に死んでくださいというのが、自由主義国家であろうと思います。

 独裁国家であるならば、独裁者の裁量によって、こういった問題が解決します。簡単に人の命を救う事が出来るわけです。最低限の生活は保証する。しかし、それ以外は無視出来る訳です。中国が名目上かもしれませんが、武漢を救ったのは、武漢を見殺しにすることで、それ以外の都市への感染拡大を防げたのだろうと思います。結果的に武漢も救うことが出来たのだと思います。こんな事は、自由主義国家では絶対に出来ません。

 戦争の時代においては、個人の人権は制限されますし、大衆も自らそれを望みます。非協力な人あるいは、邪魔をする人は排除されきという意識が生まれて来ると思います。つまり、今、マスゴミが向かっている方向性です。若者がルールを守らない、東京から脱出して地方にウイルスを拡散している、自粛をしない。そういって叩くのですが、感染の温床になっても、営業を続けるという店は擁護して、保証せよと迫ります。おバカです。得て勝手です。自らの矛盾に気がついているのか、気がついていないのかはわかりませんが。

 しかし、自由主義国家であることを謳歌していたはずの、マスゴミやら一般大衆が、ルールを守らないと言って人々を非難するというのは、非常時においては当然の流れですが、これは、人権というものに制限を与えても構わないという、独裁国家の香りがしてきます。右翼も左翼も方向性は同じです、自分達は正しく、自分達と違う意見は封殺すべきであるという事です。日本は、右翼という人達自体があまり多くありませんが(純粋な右翼と呼ばれる人達はあまりいないと思っております。どちらかと言えば、右翼のような人が多いのだろうと)、左翼はかなりおります。彼らは、マスゴミも支配しておりますし、文化人と呼ばれる層も保有しておりますし、教員、公務員にもしっかりとした基盤があります。彼らが目ざす未来へ今、コロナによって導かれているように見えます。もし、自由主義国家であるとするならば、感染して死ぬことを選ぶのも自由であるという基本に立ち返るべきではないでしょうか。

 私は、独裁国家は効率が良いと思いますが、しかし、独裁国家は好みません。独裁国家は、必ず、どこかで悲劇を生み出すからです。人の命より大切な人の国家なんてありえません。しかし、おせっかいに国家が人の命を救おうとして頑張り過ぎると、逆に濃淡が生まれて来ると思います。それは、やはり不味い事だろうと思います。ですから、人は死ぬことも自由であるべきなのだろうと思います。おバカな人は死んで祝でしょうし、おバカな人の巻き添えになって多くの人も死んでゆくであろうとは覆います。それでも、自分を律する人達が生きてゆく社会が理想的であり、そこが自由主義の最終型なのではないかなと思います。