hikarimetal’s blog

基本的に自分のためだけにメモとして書いております。

強者と弱者

 強者と弱者の関係は、強者が弱者へ配慮し、弱者が強者に感謝することで成り立つんだと思うのです。今のポリティカル・コレクトネスでは、弱者も強者と同等の権利があると考えるのが正義としているのですが、例えば身体障害者は、単なる個性であると考えなけれないけないと。個性であるなら、例えば、階段では無く、スロープにせよとかエスカレーターを付けよとか、弱者としての主張はおかしい事になるのではないでしょうか?

 つまり、身体障害者は物理的に弱者であり、健常者と違うと言うことは事実であるという認識からスタートすべきなのではないでしょうか?それ故、健常者と同じような生活を送れるように、配慮する事、それに対して、身体障害者が感謝する事、それだけで十分なのではないかなと思うわけです。健全な社会は、無理やり平等を捏造するのではなく、平等では無い社会の現実を見据えた上で、各々が社会的な平等の形を考え、配慮と感謝を行うという社会なのではないでしょうか?

 だって、政治家4代の家庭に生まれた、小泉さんと、小泉さんと同じくらいの能力があっても、サラリーマンの息子と様々な環境面で平等である筈がない訳です。そこを平等であると捏造すること自体無理があるんじゃないでしょうか?ジェンダー問題でも同様だと思うのです。男性と女性は根本的に違う問題があります。女性は子供を生むことが出来、男性は生むことが出来ないという事です。そこを無視して人間という生物は成り立たないと思います。じゃあ、子供を産まない女性は男性と同じか?といえば、やはり異なります。肉体的には、男性は強者で女性は弱者であると思います。やはり強者は使命(或いは道徳?マナー?常識?つまり強制されるものではなく空気のように自然なもの)として配慮し、弱者はその配慮に感謝するべきなのではないだろうかと思うのです。

 今の時代には、強者の配慮が無く、弱者の感謝が無いから摩擦が起こるのではないでしょうか?電車に車椅子の人が乗るのを自然に助ける健常者とありがとうございますという身体障害者、これが健全な社会なのではないでしょうか?人間という生き物は、生きるという共通の権利を有してはおりますが、どう生きるかという事については、各々その権利には制限があります。その制限を無理やり同一であるかのように捏造する考えは、あまりに独善的な或いは宗教的な狂信的な考えであろうと思いますが、今その考え方が世の中にあふれているようにおもいます。