hikarimetal’s blog

基本的に自分のためだけにメモとして書いております。

夫婦別姓問題について

 日本国憲法には、言論の自由(実際憲法21条は、表現の自由と書かれているが、それを言論の自由と解釈するのが一般的である)が保障されております。言論の自由とは、裏側に、他の人達に不当に不利益を与える事に対する責任があることが前提であると思います。

 国会で、日本国の総理を嘘つき呼ばわりして、誹謗中傷する野党が、自分達の言論に対し、やじを入れたからと言って、大問題にしようというのは、無理があるのではないでしょうか?夫婦別姓問題は、そういった表面上の問題では無く、日本という国の文化的な価値に踏み込む内容であろうと思います。政局として扱おうとするのでは無く、もっと真摯に議論をし合うべき問題だろうと思っております。

 中国や韓国においては、夫婦は別姓が普通です。欧米は夫の姓に変えるのが普通でしたが、今は、ミドルネームとかに入れるとか変わっているようです。日本における姓という概念は、おそらく欧米とも韓国とも異なるのだろうと思うのです。つまり、江戸時代には、庶民に名字が無かったという事であります。また、名字のあった公家と武士においても名字は、地名が多かったように思うのです。姓としては源であったり藤原であったりしますが、名字としては、武田の荘に住んでいる源さんは武田と呼称されており、京都の一条に住んでいる藤原さん一条さんと呼称されて、それが名字になったという事なのだろうと思うわけです。明治以降においても、田んぼの真ん中に住んでいる人を田中さんになり、川の上流に住んでいる人達が川上さんになったといったものです。つまり、名字というのは、その人の現在地を示すものであった事から、田中さんに嫁に行けば田中さんになったという事なのだろうと思うのです。

 中国や韓国の姓つまり、その出自や血統を表すようなものでは無いのです。それを、国会議員の一部は、日本の文化と伝統であると主張し、一部は、名字を変えたくないという人の人権問題にすり替えるという不毛な論争を行っているという事なのだろうと思います。両方ともに無茶苦茶な論理であると思います。名字が人権問題になるのならば、そういった社会になるのならば、個人個人が勝手に名字をつける事が出来る社会である必要があると思います。そこは、否定しながら、限定的なわけのわからない論理の人権問題を捏造するのは、左派の特徴でもある、他人は全て間違いで、自分は全て正しいという発想の所在だろうと思います。また、夫婦同姓を日本固有の文化と主張する層も、少なくとも、明治時代以降の文化が日本固有の文化と言えるのかという問題でもあります。もっと言えば、武士階級においても、公家階級においても、嫁入りした女性に名字はあったのか疑問でもあります。勿論便宜上、主人の名字を割り当てられたに過ぎないのではないかと思ったりします。例えば大石蔵之介の妻のりくという意味で女性が名字を引き継ぐという概念がなかったのではないかと。もっと言えば、皇室に名字はありません。そして、妃殿下という嫁さんには宮という呼称もありません。高円宮妃殿下であり、旦那さんの高円宮の嫁さんですよという意味です。この姿が日本の本質的なものであったのではないかと思ったりしております。

 今の時代に即応したルールを作るべきだと思います。それには、もっと根本的な議論をもとにしてほしいと思います。少なくとも、やじを言ったか言わないかで、紛糾するような、レベルの低い国会であってはいけないと思っております。