hikarimetal’s blog

基本的に自分のためだけにメモとして書いております。

血税という言葉への違和感

 私は、血税という言い方に対し非常に違和感を持っています。国民の血税をとか我々の血税をとか、税金を特別なものに捉える風潮がおかしいのではないかと思うのです。税金は、日本人として日本という国に住んでいる、或いは、日本人ではないけれど、日本に住んでいるという人達に課された義務であると思うのです。その先は、政治家なり官僚なりが責任を持って、考えるものであるはずです。そこに口出ししだすと、結果的に税金の配分が歪になるのだろうと思う訳です。勿論、不満はあって当然です。不当な使い方をすれば、非難するべきです。しかし、それは、私ではなく公の視点でもって非難すべきであろうと思います。税金は自分のものではない、ましてや、血税なんて言う程、特別なものではないと思います。

 日本の問題点は、政治家のレベルが低いのだろうと思います。それ故、官僚が自分勝手に動いてしまう。官僚が日本の未来を考えずに、自分の未来を考え出した頃から、日本という国の官僚型社会資本主義制度は壊れていったと思います。その官僚に、無能なマスコミが重箱の角をつついて非難し始めたので、彼らは更に、自分達を守るようになりました。今回のコロナ問題はまさにそ悪例です。厚労省の医系技官は、マスコミに叩かれるのが嫌で、責任逃れのために、未知のウイルスに対して、前例で対応しようとしたのです。拡散が広がってしまうという責任を回避するために、PCR検査対象者を制限して、感染者の実数を低く抑えようとしたのだと思います。法務省は、各国が中国人の入国を禁じているにも関わらず、中国人の入国制限に反対しました、法的な根拠が無いという理由です。それは、勿論法治国家の官僚としては当然なのですが、政令で何とかなる範囲でもあろうと思います。しかし、人権派と称される、頭のおかしい左翼の弁護士連中の非難とそれを増幅拡大するアホで無責任なマスコミを恐れたのだろうと思っています。もし、彼らが、日本という基軸に正面から向き合っていれば、違った形になっていたであろうとと思うのです。失敗すれば、自分たちの地位はありませんが。つまり、公より私を優先したという事です。彼らを非難しているのではありません、日本という社会がもう壊れているということなのです。

 民主主義が個人主義になるのを個人利権主義になるのを、民主主義で止める事は出来ません。それは、まさに、衆愚政治の始まりでもある訳です。つまり、アメリカもドイツもイギリスもイタリアもフランスもそして日本も、その民主主義の劣化に向き合っていると思います。最もひどいのがアメリカでしょうね。右のトランプ、左のサンダースこの2人のどちらが勝っても、アメリカの衆愚政治は深化してゆくでしょうね。アメリカには、それでも、自らの命を賭けて、アメリカをそして世界を思う人達が多く存在しているとは思います。それは、アメリカは、多くの軍人が政治に参画出来る社会であるからです。韓国大使も軍人出身です。非難は浴びてますけれど。日本で自衛隊の参謀長が大使とかになりますかね。軍人は、その性質上、公を徹底的に叩き込まれます。私を優先するとまさに、死が待っているからです。それ故、アメリカのように、個人利権主義の極地となり、衆愚政治体制である国においても、少しだけ引き戻す力が生じていると思っております。

 日本は、崩壊するだろうと思います。先人達が命を賭けて、まさに血を代償として、作った社会を現代人は崩壊させようとしている訳です。勿論、経済大国という言葉になんにも価値はありません。心が豊かな社会で、人々が幸福感を覚える、優しい社会であれば。しかし、日本の行き着く先は、少ない利権を、強欲な人達が血で血を争うような社会、つまり、地獄のような社会だろうと思っております。江戸、明治、大正頃の本を読んでますと、無職でもしっかり行きれている社会でもあった、公的な仕組みではなく互助的なしくみがある社会だったと思うのです。有名な話で、大久保利通が父の問題で貧乏のどん底にあった時、西郷隆盛の家でご飯は食べていたという話です。西郷家もそれ程裕福ではありませんし、多くの家族がいます。その中に他人である大久保が普通に入って来て、ご飯を食べる、恵んで、施しでというわけではなく、自然に出来るという社会だったのです。それが、今では、親がしつけと称して、子供を虐待し、殺すという社会になったという事です。親の欲望が親の責任、個人の欲望が社会の責任を凌駕してゆく時代であるという事です。それは、日本という国が、崩壊している前兆のようなものです。それも、まあ、仕方がありません。社会というものは、民主主義においては、国民が作るものですから。だから、私は、独裁の方が効率的であると思っているのです。勿論、いい独裁者がいる事が前提ですが。歴史上いい独裁者というのがいたのかと言えば、出て来ません。良い独裁者は最後には必ず悪い独裁者になるからです。独裁というものの本質がそこにあるのかもしれません。