hikarimetal’s blog

基本的に自分のためだけにメモとして書いております。

日本人は合理性よりも観念論を好むんだろなと思いますので、次々と新興宗教が生まれます。PCR教とか。ワクチン教とか。

 日本人の思想は、合理性よりは観念的な方向に向かう傾向にあるんだろうなと思います。ですから、憲法9条教が存在します。ケンポー、ケンポーと朝夕に念仏を上げていれば平和が訪れると信じている人がいる訳です。最近では、PCR、PCRと念仏を唱えるとコロナが消えるという信仰宗教のPCR教も出来ました。更に、ワクチン、ワクチン、というお経をあげるワクチン教も結構な数の信者を獲得しました。

 日本においては、合理的とか、効率性は、手抜きと捉えられる傾向にあります。汗水たらして一生懸命にというのが日本人のメンタリティです。だから、高校野球は好まれます。未熟なけれど、全てをかけてを好みます。ロッテの佐々木選手の決勝戦の登板回避を否定する人もたくさんいました。神聖な甲子園教の教義では、肩を壊すよりも大切な未来があるという訳です。その日本人のメンタリティでは、軍事力を持たなければ、核をもたなければ、平和が訪れるという、カルト集団が存在します。目的は、平和なのでしょうが、平和は、念仏を唱えればやって来ると信じている人たちでもあります。彼らには、もう、合理性のかけらもありません。観念論が彼らを支配している訳です。まさに、戦前の日本のような状況でしょう。合理性を排除した結果戦争に突き進んだ、日本は、戦争に負けても、合理性を身に着ける事は出来なかったという事でしょうね。

 あの当時、合理的な思考があれば、戦争は回避できたはずです。大東亜共栄圏という自分勝手な理想主義を掲げた事によって、多くの国民を扇動してしまったと思います。客観的に見れば、合理的に見れば、日本に、アメリカとガチで戦えるような力は無いはずで、石油ラインを止められれば、日本は終わるという事くらい理解していたはずです。であるならば、そのシーレーンをいかに維持するかが死活問題であり、それを日本単体で出来るはずもない、するとしたら、インドネシアまで戦線拡大が必要である事に気が付いたであろうと思います。広大な土地を支配するには、多くの人員が必要であり、当時、中国だけでも、いっぱいいっぱいだった日本が、東南アジアまで、戦線拡大してやってゆくのは、無理だと考えるべきでした。とすれば、中国のみの和平を作れば、戦争は回避できたはずです。満州と朝鮮と台湾と千島は、満州を割譲するだけで、維持できたはずでしょうね。そもそも、蒋介石と協議しておれば、今の中国共産党は無くなっていたはずですので。

 戦争とは、最終手段であり、そして、戦争する限りは勝利しかない。勝つために布石をいかに置いておくかが重要であって、そのためには、綿密な戦略構築が必要であるという事になると思います。しかし、当時の日本人にはそれが無かった。少なくとも、日清、日露の頃は、合理的に必死に考えた訳です。それ故、参謀長2人がその激務のために、命を落とし、超大物の児玉源太郎が自ら降格して、参謀長についたのだと言われております。

 そういった意味にもいて、今の憲法9条教もPCR教もワクチン教も、全く合理性も無い、観念論しかありません。そして、状況把握すらできておりません。ですので、念仏を唱える事だけに専念せざるを得ない訳だと思います。憲法9条教なんて、もう70年の歴史があるんですが、戦略も何も無いので、稗田阿礼よろしく、口分伝承憲法にしてしまって、自由に解釈改憲を許しております。どどのつまりは、自衛権は、憲法に記載されていないが、当然含まれると解釈できるようになりました。(笑)じゃあ、他にも一杯憲法に記載されていない事があるんでしょうね。という、おバカな解釈論に持ち込まれてしまいました。集団的自衛権違憲で、個別的自衛権が合憲であるという、憲法解釈による、違憲、合憲論なんてものが、最たるもので、おかしいものにしてしまいました。元来、憲法としては、自衛隊違憲である。というのが自然な解釈であったはずです。しかし、国連憲章自衛権は認められているので、国連憲章憲法の上位とすると定義すれば良いだけだったのかもしれません。(というか、その場合、国連憲章に相反する憲法保有している事自体が大きな問題なんでしょいうが)

 憲法の解釈学が存在し続ける今の状況を、合理的に見れば、怖い事だと考え、改正し、明確に定義しようとするはずなのですが。そうでは無いので、彼らの観念論は、もう救いようがないくらいの洗脳下にあるんだろうなと思います。