hikarimetal’s blog

基本的に自分のためだけにメモとして書いております。

安楽死の問題とコロナ感染拡大に関する問題について

 安楽死の問題についてですが、面白いのは、普段、自由だ権利だを主張する、所謂左翼側が否定的であるという事だという事です。彼らの主張って独特なので、まあ、彼らと同じような方向性の人達は多くいると思いますが、各々が微妙に違っているようにも感じます。旧民主党の合流名として、自分民主党という名前でどうでしょうかと密かに提案しておりますが、彼らは、先ず自分というものがあり、そこから思考をスタートするので、微妙に変わるのかなと思っています。

 生と死は、人間としての絶対的な価値であります。どちらも人間というものを定義するものであります。仏教では、四苦として、生老病死と定義しております。それは絶対的で、それ以外は相対的なものであると。絶対的な価値をどう取り扱うのか、人間に与えられたというのは、人間にとって普遍的な課題でもあると思います。

 死刑廃止論の中で、殺された人の権利は全く語られません。殺した側の権利は非常に手厚く取り扱われます。それは、一方が死によって、人間ではなくなり、一方が生きている事から、人間としての権利が存在するという考え方なのでしょう。つまり、権利は、生きている人にはあるが、死んだ人には無い。当然の事だと思います。まあ、死んだ人にも権利があるとする国、民族もあったりしますが(お隣の国は、ずっと、死んだ人の権利を主張し続けておられますが、そういった国民性なんでしょうね)、少なくとも、日本には存在しないと思います。

 つまり、生と死は、人間としての権利を行使出来る最終のものであるとすれば、尊厳死は、最も重要な意思決定を行う権利として、尊重されるべきかもしれません。自殺は肯定されるものでは無いと言われておりますが、自殺未遂の人は犯罪者ですか?自分を殺そうとした殺人未遂として裁かれますか?つまり、自分を殺す行為は、殺人では無いという事ですよね。とすれば、本人の指示により、尊厳死をサポートする行為は、本質的には、犯罪では無いという事なのだろうと思います。

 ダブルスタンダードという、得手勝手な考えは、どこにも存在します。しかも、本人達は、その矛盾に気が付きながら、何等かの意図を持って煽っているんだろうと思います。人間は、生きる権利があるとすれば、当然ながら死ぬ権利があるという事そんな、単純な事ではないかと思っています。もちろん、自殺も安楽死も肯定しているつもりはありません。単に、権利の行使としては認められるものですが、その判断を肯定するものではありません。そうならない、そう判断しない社会を作るよう努力してゆくべきだと思っております。

 生きる事があまりに苦しくて、先には絶望しかない状況において(それが絶対的なものではない、誤解かも或いは、精神的な異常なのかもしれませんが)自らが判断し、自分の命を終える事は、ある意味客観的に判断されるべきではないでしょうか?倫理的な判断があっても良いのではないかと思います。

 何度も言いますが、コロナ感染症で、国、都が出来る事は限られます。個人の判断で、感染するリスクを明確に理解できずに行動する人に対し、行政は何も出来ません。彼らには、感染する事も含んで、遊びに行く自由があるのです。それ以上でもなければ、それ以下でもありません。若者が、高齢者に感染させるというのは、言いがかりです。高齢者の中にも、コントロール出来ない人がいるのです。若者だけが悪くて、高齢者が被害者のように語られますが、賢明な高齢者は感染しません。感染するには感染する理由があるんです。まあ、そういった、リスク管理能力や知能の無い人が感染し、命を落とす事は、自由主義社会そのものではないでしょうか?例えば、仕事を一生けん命にしてお金を稼いでいる人と、日々遊んで暮らしている人が、同じ暮らしが出来ないのは、国が悪い、都が悪いと言っても、誰も理解出来ないと思います。勿論、基本的な人権を尊重する事は当然ですが、それはベーシックなところであり、同じであるというのは違います。つまり、コロナに対する理解を持たない、自身をコントロール出来ない人が感染するのは、自然な姿であり、それは、個人の責任であるし、個人の自由であり、権利の行使であると思います。そこまで、行政が踏み込んではいけないように思います。